グラスの中の無数の星―ちょっとポエムっぽくなってしまいましたが、シャンパンは見た目の美しさやゴージャスさから、現在「祝い」の象徴として世界中で愛されています。しかし、この気品あふれる発泡酒は、以外にも “造り手を悩ませる爆発事故”から始まりました。今回は、300 年を超えるドラマチックな誕生ストーリーをまとめます。

17 世紀のシャンパーニュ地方──まだ“泡”は無かった
当時フランス北部 シャンパーニュ地方で造られていたのは、ごく淡い色調の赤ワイン ヴァン・グリ(vin gris)でした。直訳は「灰色のワイン」。黒ブドウを白ワインと同じ“ダイレクト・プレス”で搾るため、ごく淡いピンク〜玉ねぎの皮色に仕上がる “ほぼ白いロゼ” です。冷涼気候で酸が高く、冬の低温で発酵が止まったまま樽や瓶に詰められるのが一般的でした。
寒冷な気候
14〜17 世紀の小氷期でシャンパーニュは春先まで低温。秋に仕込んだ静かな赤ワイン(ヴァン・グリ)は、冬の寒さで酵母が休眠 ⇒ 翌春の気温上昇で瓶内発酵が再起動しました。
糖と酵母の残存
当時の搾汁・濾過技術では、瓶詰めされた後も澱(酵母)や未発酵糖が多く残っていまいた。春になり、温度上昇に伴い酵母が活動し、発酵に伴ってCO₂が逃げ場を失って最大6 barもの圧力に。それに伴い、薄いガラス瓶は次々に破裂し、生産者が命を落とすほどでした──ゆえにあだ名はvin du diable(悪魔の酒)と呼ばれ、「祝い」とは反対側の存在でした。
黒ブドウ(ピノ・ノワール)で透明に仕上げる
シャンパンのブドウは、黒ブドウのピノ・ノワールとピノ・ムニエ、そして白ブドウのシャルドネで造られます。黒ブドウを使っても透明に仕上げる技術(blanc de noirs) は技術的にはヴァン・グリの応用形です。
黒ブドウのピノ・ノワールだけで造られるブラン・ド・ノワールと呼ばれるシャンパンも色は透明(シャンパンゴールド)ですね。
ドン・ペリニョンは何を発明したのか?

シャンパンを発明したのは ”ドン・ペリニョン” というのは、ワイン好きでなくても知られていることかもしれません。ところが、実はシャンパンはドン・ペリニョンが発明したわけではないのです。
ワインを勉強したての頃は自分もドヤ顔で語っていたのですが(恥ずかしい)、実はペリニョンさんは発明したわけではなく、品質を「改善」することでシャンパンの発展に大きく貢献したのでした。
**ドン・ピエール・ペリニヨン(1638‑1715)**は偶発泡を「欠陥」とみなしつつも、
- 畑・品種・年違いブレンドの体系化
- 黒ブドウを優しく搾る圧搾法(色を出さない)
- 瓶内二次発酵を抑制し安定させようとした試行──偶発そのものを“制御”する方向へ舵を切った点が画期的でした。
「ドン・ペリニヨン=シャンパンの発明者」という伝説が生まれた背景
ではなぜ、いまなおドン・ペリニョンがシャンパンを発明した人と語り継がれるのか。それには当時のマーケティング戦略がありました・・
1.当時は、「泡=失敗、欠陥商品」だった
- ドン・ピエール・ペリニヨン(1638‑1715)は、偶発再発酵による爆発を“欠陥”と考え、ブレンドや圧搾改良で泡を抑制しつつ高品質ワインを目指していたのが史実です。
- 同時期にロンドンの化学者クリストファー・メレットが糖添加・瓶内二次発酵の理論を発表(1662)しており、「発泡技術の理論化」はイギリス側の成果でした。
2. 1789 – 1830 年代──革命・修道院解散と“物語の空白”
- フランス革命で多くの修道院が閉鎖され、オーヴィレール修道院(ドン・ペリニヨン終焉の地)も 1791 年に競売。修道士の一次史料は散逸し、空白が生まれます。
- 1821 年、元セラーマスターのドン・グルサールが「ドン・ペリニヨンこそ発泡ワインの創始者」と手紙で主張。根拠薄弱ながら修道院の威信回復を狙った“脚色”が広がり始めます。
3. 1823 – 1860 年代──シャンパン・ハウスとナショナル・アイデンティティ
- 1823 年、モエ家の後継ピエール‑ガブリエル・シャンドンが修道院を購入。フランス革命後に世俗化した遺構を自社資産とし、「修道士の遺産=自社の起源」という図式を構築しました。
- 産業革命で鉄道輸送と強化ガラスが普及し、シャンパンは貴族の嗜好品から輸出型高級ブランドへ転換。国家の看板商品となるにつれ、“英国起源”では都合が悪く、フランス固有の英雄譚が必要になりました。
4. 1890 年代──広告業の勃興と“星を飲む”キャッチコピー
- **1896 年、業界団体シャンパーニュ商業組合(Syndicat du Commerce)**がパンフレット『Le Vin de Champagne』を発行。“ペリニヨン発明説”を公式化して他地域のスパークリングとの差別化を図ります。
- 同時期、新聞・ポスター・万国博覧会で泡のイメージが拡散。**「星を飲んでいる!とCome quickly, I am tasting the stars!』**という有名な台詞は、19 世紀末の広告コピーが初出で、実はドン・ペリニョン本人の言葉ではありません。
5. 1900 – 1920 年代──ベル・エポックとストーリーブランド化
- ベル・エポック期(1871‑1914)は上流ブルジョワ階級と中産階級が“贅沢の物語”を消費した時代。泡=近代的祝祭というイメージが、都市のカフェ、アール・ヌーヴォーのポスター、文学作品を通じて定着。
6. 1921 / 1936──物語の“商品化”完成
- モエ・エ・シャンドンは1921 ヴィンテージを初代“Dom Pérignon”キュヴェとして瓶詰め(市販は 1936)。ラベルに修道士の名を掲げ、神話とボトルを一致させたことで、伝説は世界中の消費者へ一気に浸透しました。
19世紀の革命児──マダム・クリコと“ルミュアージュ”
1816 年、若き未亡人 バルブ・ニコル・クリコ はキッチンテーブルに穴を開けたリドル台で瓶を 45° 傾けながら回転させ、澱を瓶口へ集める ルミュアージュ を発明。デゴルジュマン(凍結澱抜き)と合わせ、澱のない輝きのあるなシャンパンを大量生産する道を開きました。
シャンパン誕生までの時系列
年代 | 出来事 | キープレイヤー |
1662 | 糖添加による瓶内二次発酵を学会発表 | C. メレット |
1680‑1700s | ブレンド理論・瓶内二次発酵を洗練 | ドン・ペリニヨン |
1740s | 英国製耐圧“緑ガラス”瓶が普及 | ロンドンのガラス職人 |
1876 | Brut スタイル誕生 | ペリエ・ジュエ |
1816 | ルミュアージュ発明 | マダム・クリコ |
1891 | マドリード協定で名称保護 | 諸加盟国 |
1921/36 | キュヴェ「Dom Pérignon」発売 | モエ・エ・シャンドン |
まとめ
偶然の失敗から始まったサクセスストーリー。胸が熱くなりますね。でも「ドン・ペリニョンが偶然シャンパンを発明した」というのはマーケティングによるもので、むしろドン・ペリニョンは、欠陥品の発泡性ワインをどうにかして高品質なワインにしようとしていました。
その後、発泡性ワイン自体の魅力に気付き、品質改善をしていく。そんな姿が実に人間味があって、逆に魅力を増していく。ペリニョン本人も、後世でこれほどまでに世界で愛される飲み物になるとは想像できなかったのではないでしょうか。
偶発事故 → 技術革新(ルミュアージュ・ミュズレ)→ 味覚進化(Brut)→ 法的ブランド防衛(マドリード協定)という “技術と物語の螺旋” が、シャンパーニュを“世界共通の祝杯”へと押し上げました。
シャンパンという華やかな存在の陰には、現状を改善したい人の想いや地道な努力の継承があったのですね。次にグラスを傾けるときは、泡の向こうに 300 年以上の悠久の時間と人間の挑戦とイノベーションの火花を思い浮かべてみるのも悪くありませんね。